gluewineのブログ

HSPなReaです🐈🍷身も心も温まるシナモンが入ったあったかいGlue Wein🍷でほっこりブログ

はっきりと目を覚ます

こんにちは。

今日も今日とて心と向き合っています。

 

Burn-out病欠も長くなってまいりました。

年末年始にもともと3年ぶりに日本に一時帰国する予定がありまして、

どうせなら繋げて、リラックスしておいでと言っていただきました。

折角の人生で一回あるかないかの病欠により数か月の休暇ですので、

納得いくまでとことん自分と向き合おうと思いました。

 

ただ肝心の自分との向き合うプロセスは上手くいっているような、

いってないようなであることは、前回のブログからわかってもらえるかと思います。

 

私は多分、一度新しい自分になったことがあるから、

なれる自分を知っているからこそ、焦っている。今自分がいる場所に。

そして早くそこまで行きたくて、ずっとジャンプしてる。

でも本当は今自分がいる場所を認めて、受け入れて、

また一歩ずつそこに向かっていくしかない。

それはゆっくりでしかたどり着けない。

 

今日はなんだか朝から心が落ち着かなくて、

両親との帰国についてのメールでの連絡も思うように進まなくて、イライラ。

イライラしているんだって気付いたところで、イライラが収まるわけじゃなくて、

あーイライラしてるのね、だから何、何も変わらないじゃない。

そんな感じでひねくれながら、もういや!って思ってベットに飛び込んだんですね。

途端、とても大きな音が聞こえました。

慌てて何事かと起き上がると、8年愛用していた大きな大きな全身鏡が

倒れて見事に砕け散っていたんですね。

 

驚きと、ショックと、悲しみと、これどうしようと、猫の心配と

あれこれ感情が一気に吹き出ました。

頭の中が爆速で回転するのがわかりました。

大丈夫大丈夫、鏡が割れた、それだけだと事実を観察するように努めました。

その間も、私がイライラしなければ、私がベットに飛び込まなければ、

そんな後悔が湧きますが、後悔をするメリットは一つもない、

鏡とはお別れの時期が来た、それが今だっただけだ。

そう理解するよう意識しました。

ただ、あまりにも泣きたくなったので、そこは我慢せずに泣きました。

悲しくていいよ、泣いていいよって。

そうするとアッという間に泣き止んで、よし、何から始めようか、

そうやって切り替えられるんですね。

後は変な思考に囚われずに淡々とお片付け、粗大ごみの手配を進めました。

お片付けの間、ごめんねって気持ちが湧き出るのですが、それよりも、

ありがとうありがとう、ずっとずっと私を見守ってくれてたね、

苦楽を見てくれていたね。

そう思いながら、お別れをしました。

 

そして何より、この鏡が割れたことで、

目を覚ませよ!!!そういわれているように感じました。

ばりんっと大きな音を立てて割れた私の大切な鏡は、

私の頭を一瞬真っ白にしました。

ぱちんと思いっきり頬をたたかれたような、そんな感覚。

目を覚まさないと、そう思ったんです。

 

私は、マインドフルネスに置ける知識は十分ある自負があり、

実践し、1年かけて新しい自分になった自負もある。

それゆえに、知識でどうにか対応しようとして、

基礎に返る事をすっかり忘れているんだと思います。

基礎をしっかり作ってこそ応用が効くのに、応用ばかり使おうとしている。

基礎に返る時だなと思いました。

 

正直応用を使いこなしてた自分を知っているから、

基礎に返るのはつまらなかったり、自分にがっかりだったり

そんな気持ちになるんです。

でも今日の鏡が教えてくれたと思います。

目を覚まして、また基礎からコツコツ始めようって。

 

自分の全ての感情を認め、受け入れる

一点集中

SNSの制限

 

まずはここから始めようと思います。

 

変わりたいのに変われない時、

それははっきりと目が覚めていないから。

はっきりと変わりたいと思えてないから。

はっきりと変わる目的を覚えていないから。

変わりたいな、でもって思ってる内は変わらない。

本当に変わる時、それは本当に目が覚める時。

それは覚悟に似てて、強い信念に似てる。

 

この感覚を忘れないように、

私も明日からまた変わるための一歩をこつこつ進めて行こうと思う。

 

皆さんの心が安らかでありますように。

Rea🐈🍷

受け入れる強さと主張する強さ

こんにちは。

今日も今日とて心と向き合っています。

 

長らくブログを書いていませんでしたね。

実は夏に人生一と言っても過言ではないくらい多忙な日々を送った結果、

強い感情の波に襲われるようになり、

会社のドクターと話をしたところ、Burn out,燃え尽き症候群という診断をされ、

今約一か月お休みを貰っているところです。

 

夏は仕事もプライベートも本当に忙しくて、

自分なりに自分を労りながら進めてたつもりでしたが、

ものすごい勢いで進んでいく現実、物事に心が追いついていない感じはありました。

進んでいく現実は私に休むことを許さず、踊り場のない延々と続く階段を

登らされている、そんな風に感じていました。

その結果燃え尽き症候群という事で、お休みをいただくことになりました。

正直、ほっとしたというのが正直なところです。

やっと休める。やっとやっと。そんな思いでした。

 

それに今までの学びを使う、思い出す時間もないままに、

多忙な現実に追われてしまっていたので、

私の思考はすっかり昔の私に戻っていました。

自分と向き合う時間が欲しい、整理しないと壊れてしまう。

そうずっと思っていたので、その時がやっと来たとほっとしました。

 

心はほぼ壊れかけていました。

症状としては強い怒りを頻繁に感じました。

同僚にかみつくこともありました。わけもなく涙が流れる事がありました。

それでも現実は私を休ませてはくれませんでした。

働いていると、そういう時ってありますよね。

何かもっと出来ることはあったのではないか?とも思いますが、

あの時の私にとって、あれが私のベストでした。

燃え尽き症候群になるのもまた、起こるべくして起こってるんだろうと思います。

 

休み始めは正直全然休まりませんでした。

もう思考と心がパニック状態なので、常にピンと糸が張っていて神経質で

不安緊張を抱えていました。

早く直さなきゃ、そんな風に自分にプレッシャーを掛けていて、

休みをもらっているのに、全く休まりませんでした。

しかし3週間休んでいくうちに徐々に日々の張りつめたストレスから解放され、

体も心もほぐされていくのがわかりました。

リラックスをするためだけに3週間かかったのは正直想定外で、

自分が思う以上に体と心は限界ぎりぎりだったんだなと思わざるを得ませんでした。

 

そしてリラックスした今は、また自分の思考を観察し、心と向き合う事をしています。

前回の鬱の時に、私を救ってくれた本を読み返してみたり、

瞑想をして自分の思考を眺めてみたり。

前回の鬱で、沢山本を読んで学びを得た私は正直自分でも驚くほどに、

新しい自分になった感覚があったんですね。

新しい思考を手に入れた、新しい私が、第2の人生を始めたような。

今回は正直そこまでの感覚はまだ手にしていなくて、

それでも新しい自分だった時の思考や感覚をなんとなく思い出して、

日々の自分の心を救っています。

 

それでもまだ仕事に戻るまでの自信は戻っていないかなと思います。

この夏仕事中に感じたストレスと怒りは今までにないほど強かったんです。

今の仕事とどう向き合っていこうか、まだ答えが出せていません。

 

私はHSPなので、正直不自由を感じる事が多いです。

多くの事に人よりも敏感に反応し、ストレスを感じています。

私以外の皆はいちいちストレスを感じていないんだと思います。

となると、こうしたいああしてほしいという私の主張は少数派になり、

多数派の意見が通るというのが現状です。

人より我慢することが多くなる。ともいえると思います。

私たちHSPはわがままを言っているんではないんですね。

心が壊れないように、働きやすい環境を提案している。

ただ、HSPじゃない人にとっては特に問題はないので現状維持でいい

という事になってしまうということです。

全員に私はHSPなので私の意見を受け入れてほしいと伝えるのもおかしいですし、

結局は多数決で決まった世界で生きるしかない。

それがHSPが生きづらい理由ですよね。HSPは少数派ですから。

HSPじゃない人と同じ生活をするのはストレスのかかる事なんですよね。

 

でも会社に復帰する際には、私がストレスに感じている事を

上司に伝える必要があると思っています。

それは他でもない私自身を守るために。

私を守れるのは私だけですからね。

これが会社のルールだから、

と言って全社員に同じルールを適用したいのはわかります。

それは目に見えて平等で批判を生みにくいですから。

でもHSPは見えないハンデを抱えています。

足の不自由な人が多少の柔軟性ある対応を取ってもらえるように、

HSPもそのように対応してもらえると、ぐんと生きやすくなるわけです。

それを主張してくれるのは、私本人だけなんですよね。

 

働く環境についても考えさせられる機会となりました。

私のこの会社でハッピーなのだろうか。

もっと柔軟に対応してくれるとこの方が幸福感があるのではないか。

一先ず今の会社でどこまで対応してくれるか、聞いてみよう。

 

自分の心と向き合って、手放せるものは手放していく。

私の中の歪んだ思考は矯正してく。

そんな努力をしながら、外側にも働きかけていく。

私に合う環境はどんなとこかな、どのくらい対応してくれるかな。

 

心を向き合って現実を受け入れていくっていうのは、

ただ辛い現実を受け入れていくってことじゃない。

それだとただの我慢するための精神を育てることになっちゃう。

自分の在りたい自分でまずいる事。

そしてそう在るためは、今の環境は適しているのか考える事。

その落としどころを探るってこと。

 

受け入れる強さと主張する強さ

この二つが自分を守ってくれる。

 

皆さんの心が安らかでありますように。

Rea🐈🍷

 

反応を散らさない事が穏やかな心の基本

こんにちは。

今日も今日とて心と向き合っています。

 

最近は基礎から自分の心、思考との向き合い方について組み立て中なのですが、

頑張ってるのに上手くいかない、

前のようにしっくりくる言葉が見つからない、

あれもこれも違う、間違ってる気がする、

そんな感じで焦り、怒りが湧いてきます。

 

私の住んでいる国はあっという間にもう冬の気配がしていて、

空は暗く、どんよりしています。

お天気ってメンタル左右されちゃうんですよね。

 

沢山の事に反応して、思考が大忙し、心が大疲労だなあと

ここ数日感じているので、病欠の権利に甘えて、今日は病欠しました。

心の病も、病気ですから。目に見える病気よりも深刻な。

なんとなく日々をやり過ごすんじゃなくて、

一旦立ち止まって自分とちゃんと会話をすること。

 

でもそんな今日も焦りと怒りから始まりました。

心が疲労してる時、私は本当に良く寝るのですが、

朝起きて猫ちゃんのお世話をしてもう一度寝て、起きたのが午後一時。

折角休んだのに何も出来てないじゃないと焦り、そんな状況と自分に怒り。

あ、ここから始めよう。そんな風に病欠の一日を始めました。

 

まずは自分の反応を観察ですね。

あ、イラっとした。あ、不安になった。あ、焦った。あ、怖がってる。

そんな感じ。

でもこの反応に気付きながらも、思考が思考を続けちゃうんですね。

こうなったらどうしよう、ああもしこんな風になったらどうしよう。

反応の観察は出来ているものの、思考の支配力の方が強い状態。

そんな状態を続けてたら、ものすっごい焦燥感にかられたんですね。

だめだ、こんなんじゃだめだ、何かが間違ってる、なんだか全部が違う気がする。

そんな風にして、自分自身、感情、思考、環境全てを全否定し始めたんですね。

 

おやおや、これはガチ鬱の兆候だぞ。。。そんな事を思いながら、

どうにか思考の暴走を止めるべく、サティ、気付くことから始めました。

これは仏教の思考コントロール法の一つですが、自分の感覚に常に集中する事です。

歩く時の足裏の感覚。物の取る時の腕の動き、物の感触。

サティに追加で、ラべリングと言って、

自分の行動を言葉にするとより集中しやすいです。

右足右足ついた、左足左足ついた、物を取る取る取った、かたい。とか。

 

なぜこれをやるかというと、暴走し散らかりまくっている反応を止めるためです。

本当に鬱に近い時は目に入るもの全てが嫌になったりもします。

このソファーの色は違う。こんなのが見たいんじゃない。

この音は耳障りだ。冷蔵庫か、電源を切ってしまえとかね。

思考の収拾がつかなくなって、反応が暴れ放題になっています。

なので反応を散らなさい。これは穏やかな心のために、とても大切な基礎。

 

そしてもう一つ、サティで反応を散らさないのと一緒に心に留めておきたいのは、

全部起こるべくして起こってて、そのままでいいという事。

ソファーのその色もそれでいいし、その音もそれでいい。

それに反応してパニック、ヒステリックになってる私もそれでいい。

散らかってる部屋も、片付かないキッチンも、開いてるドアも、

それがいけない事だって、自分の中で思ってるから、

許せない、片付けられない自分も許せない。

これは鬱、パニックに近い自分に2重苦を与えてる状態です。

でもそれでいいんだってわかれば、目に見えるもの、

聞こえるものを否定しなくなる。

パニックな自分を否定するという二重苦に踏み込むのではなく、

パニックな自分を肯定し、向き合っていくことが出来る。

 

起こるものに対して、拒否して反応し続けるんじゃなくて、

起こるものに対して、それでいいんだってとりあえず受け入れてみる。

 

これをするだけでも、心は随分穏やかになる。

 

スピリチュアルで言えば、全ては宇宙の法則に従って起こってるし、

人間ルールで言えば、世の中の9割以上はコントロールの出来ないものだ。

そう思うと、コントロールの効かないものに反発し続けるより、

そうか、こんなことが起こったのか。それでいい、と受けれ行く方が

どれほど心地よく生きれるだろう。

一旦受け入れてから、自分の希望に多少近づけるにはどうしたらいいだろうか、

そんな風にゆっくり考えていけばいいんだよね。

 

喜怒哀楽、不安、心配、人間として生を受けた以上、

これらが無くなることは死ぬまでない。

だから焦ることなくゆっくりそんな反応と仲良くなっていけばいい。

上手く付き合えるようになっていけばいい。

確かに今、パニック状態の人にとっては絶望的に思えるかもしれないけど、

絶対に方法はあるから。

パニック状態なら、一刻も早く幸せになろうって思うじゃなくて、

まずはパニックを抑えるところから。

1分前の自分より、良くなってれば十分なんだから。

大ジャンプしようとするんじゃなくて、

一歩ずつでしか、人は進めないんだから。

焦ることなく、1分前よりも素敵な自分。昨日よりも素敵な自分。

そんな風にして自分のなりたい自分に、ゆっくりなって行きたいですね。

 

皆さんの心が安らかでありますように。

Rea🐈🍷

人と比較するのをやめるには、捉え方を変えましょう。

こんにちは。

今日も今日とて心と向き合っています。

 

今日は頭の中がパンパン、コチコチ、多分情報過多状態なので、

とりあえず色んな事を吐き出してみようと思います。

鬱になってからの1年間は毎日日記、メモを書くのが日課だったのですが、

最近はついに頓挫しておりまして、まあこれも一歩進んだ証という事にしましょう。

今日のブログが上手くまとまるかは、今のところわかりません。

 

最近も新しいお家のコーディネートのために、

あーでもない、こーでもないと頭をフル回転しています。

こだわりも強いので、一個調べ始めるとあっという間に2時間経ちます。

脳がフル回転ということは、雑念もフル回転。

検索しながら、昨日のあんなこと、今日のこんなセリフを

同時進行で思い浮かべてるわけです。

そんな中でも自分が出来てる事、とすれば

その妄想に気付いて、その妄想からくる自分の反応に気付いて、

検索しているという事実に戻れるというところです。

勿論妄想に呑まれて、心がもやもやし数分後に気付く、なんてこともありますが、

それでも、気付く、という事が素晴らしいですよね。

これからも自分の心を見張る、観察する、続けていきたいです。

 

今日は本を読んでいて人と比較する、という、

無駄と知りながらどうしてもやってしまうこの習慣について、考えてみました。

人と自分という空間のとらえ方を間違えているんだろうなと思います。

人と比較する時、私たちはは知らぬ間に自分や人の生きてきた道を

縦一本の線としてとらえていると思います。

まるでずっと一緒に歩んできたかのように。

まるで相手の全てを知ってるかのように。

でも実際、例えば友人Aさんと私が出会って過ごす時間って

人生でいうほんの一時にしか過ぎないわけです。

つまり私と並走している数か月のその前後を知らないのに、

まるで全部知ってるかのように思い込んでいる、ここがまず罠です。

例え何十年も仲のいい親友であっても、

その子と一緒にいた時間だけで換算すればそれほど長くないはずです。

家での彼女、バイトや会社での彼女、彼氏といる彼女、一人でいる彼女を

どれほど熟知していると言えるんでしょう。

 

例えば、Aさんと私が同じ就職先を目指したとします。

比較が生まれやすい状況ですよね。

例えばAさんが受かって私が受からなかったら、負けた気がしますね。

でも例えばAさんが本当は国会議員になりたいとしたら、

彼女にとってその職場はまだまだ道半ば、きっと険しい道がまだ待ってますよね。

かたや私がもし安定した会社に入りたいという希望であれば、

別の安定した会社に受かったのであれば、大成功ですよね。

相手がどこに向かってるのかも知らずに、

私たちはまるで相手の全てを知っている気になって、

ほんの一瞬並走した時に比較して、一喜一憂しているわけです。

大事なのは結果じゃなくて、相手じゃなくて、

私は満足か、幸せか、それだけなんですよね。

 

例えば車を運転していて、後ろの車が抜いてきた時になんとなくムッとしますかね。

抜かれたという結果を見て、私が遅かったのかしら、危ない人ね、とかなんとか

思ったりしますよね。

でもその人の親族が病気で、急いで東京から大阪に向かってて、

かたや自分は東京内を悠々移動中なだけだったら、感じ方は変わりますかね。

ご苦労様、急いでるのね、気を付けてね。そんな気持ちになりませんか。

なんとなく、比較する事の無意味さわかってきた気がしませんか。

 

例えば、嫉妬する美しい友達がいたらどうでしょうか。

人気者で幸せそうな彼女を見て、妬んだり嫉妬する人もいますよね。

でももし彼女が、本当は女性に恋をする心を持っている人だったとしたら、

彼女はあなたと美を競っている場合ではないわけです。

 

皆それぞれの事情がある。全部知った気になってることが罠なわけです。

簡単に言うと、人の事なんて、どう頑張っても、わからないのです。

だから知った気になるよりも、わからないものなんだ、と意識を入れる。

嫌な人だな、羨ましいな、むかつくな、じゃなくて、

人の事情はわからないものだな、と思うんです。

 

私たちはたまに一瞬並走するんです。

その瞬間をまるで全てのように感じて、一喜一憂し、絶望までする。

自分たちの人生を、平面の線で捉とらえるから、

あの子の方が早い、あの子の方が前にいる、この子は遅い、そんな感覚が芽生える。

でも人生を、立体の中の点でとらえるとどうでしょうか。

そうすると、前も後ろも、上も下も存在しませんよね。

皆が好きな方向を向いて、好き勝手な速さであちこち動いているだけです。

顕微鏡で見た、微生物みたいな。

誰が早いも、遅いも、前も後ろも、上も下もない。

点がたまに早くなって遅くなって、右行って左行って浮遊しているだけ。

それが私たちなんですよね。

その点と点がたまに並走する、その瞬間に比較をしている。

なんとも無駄に思えてきますよね。

行先も知らないのに、それまでどこを浮遊してたかも知らないのに。

まるで全部知ってるような気がしてる。

 

世界は自分を中心に回ってる。

この言葉ってちょっとネガティブな印象がありますよね。

自己中心的みたいな。ナルシストみたいな。

なんでナルシストに聞こえるかっていうと、

自分を中心に世界を見てるから。

あの人は私をどう思ったかな、あの人は私をどう評価したかな、

あの人は私より勝ってるかな、あの人はあの人は・・・って。

 

自分が周りの世界を気にしなくなった時、世界は勝手に回り始める。

私以外の世界は、私以外のそれぞれの人で作られてるから。

私以外の世界は、私の関与するところじゃない。

私以外の世界は、皆が各々幸せになるために切磋琢磨している。

そして私の世界は私だけになる。

私の世界は、私が幸せになるために、私が切磋琢磨する世界。

それこそが私が作るべき世界。

私が何をしたくて、私が何を好きで、私が愛を感じてて、私が安心してる。

私を中心に私の世界は周り、外の世界は勝手に回る。

 

ちょっと難しくなってきましたかね。

なんだか人と比較してしまう時、なんだか負けた気がしてイライラする時、

微生物を思い出してみてください。

あの子も、この子も私も、皆微生物のようにあちこち浮遊いているだけ。

むしろ一瞬でも並走したなら奇跡です。

どっちが勝ったという事よりも、

並走したという事実に、わあ、こんにちはって言いたくなる。

比較するのがバカバカしく思えたら、大成功ですね。

 

ブログがまとまったのかはよくわかりませんが、

私の頭のコチコチ感は良くなった感じがします。大成功ですね。

 

皆さんの心が安らかでありますように。

 

Rea🐈🍷

事実と頭の中の世界を分けるところから

こんにちは。

今日も今日とて心と向き合っています。

 

自分の心の声を聞く修行を自ずと積んでいた私は、

とても鮮明に心の声に従えるようになっていたのですが、

家を買う一連の中で、やっぱり思考を使う必要があり、

その結果、頭の中が騒がしくなりましたと、何度も申しておりますが、

考え事で頭が騒がしくなると、自然とデジタルな物にも手が伸び始めるんですよね。

暇な時はYoutubeNetflixSNSを見て、騒がしいものを体が求め始める。

無音、静かな時間をつまらないと感じ始める。

頭って順応力が早いんですかね。

静かに心と向き合うために時間を費やしていた時は、

あらゆる音がストレスに思えたのに。

自分の頭に振り回されますね。

自分の意志でバランスを取る、これが難しいけど本当に大事。

思考にコントロールされている私たちが、そのことに気付いて、

思考をコントロールする術を身に着けるんです。

 

頭が騒がしくなっていい事って、ほとんどありませんね。

雑念、妄想が増え、不安、心配、恐怖にかられていく。

家を買うプロセスで毎日慌ただしく、すっかりヨガもしなくなってしまいました。

現実に呑まれるがまま、呑まれました。

今やっと落ち着いて、いざ、立て直そうと、初心に帰って奮闘中です。

が、本当に呑まれに呑まれたので、立て直しがとっても難しい!!

 

こんな時は、久しぶりに仏教の本を読み始めました。

私が心と向き合う中での基礎中の基礎。

いかに思考を抑制していくか。あらゆるものを判断せず、反応せず。

正しく思考を使うための教科書です。

妄想の暴走をどうにか止められないかと本を読んでいると、

事実と頭の中の世界を分ける事の重要さを改めて思い出した感覚がありました。

 

そもそも人は、事実と妄想が入り食った世界で生きています。

その境目をはっきり理解して生活している人はいないでしょう。

例えば、食卓にご飯が並んで、うわあおいしそうと思います。

もう入り食っていますね。

食卓にご飯が並んでいる、のは事実で、

美味しそうだと判断したのは、妄想、頭の中の世界です。

なぜ?って思いますよね。

だってご飯はそこにあっておいしそうなのは事実じゃない。

でも例えばハンバーグが嫌いな人は全く別の思いを抱くわけです。

つまり、ハンバーグが美味しい,美味しくないは事実ではなく、各々の判断です。

 

自分の好きなものを目の前にして、おいしそうだと判断するのは、

幸せな事なのでさほど問題ないと思いますが、自分の嫌いな物があった時、

人は多少なりと、がっかり、残念、これは嫌だ、テンションさがった、

そんな風になりますよね。

そんな時に、ああ、私はがっかりしてるんだ、でも事実はご飯が並んでいるだけだ。

そう気付けると、間違ってお母さんに当たったりして、後悔しないで済みますね。

そして冷静に判断する思考へと持っていくことも出来ます。

好きじゃないけど、試してみようか。

お姉ちゃんに交換してもらおうか。

お母さんに次回からはこれ入れないで、でもいつもありがとうと伝えようか。

そんな風にして、反応に振り回されずに済むわけです。

 

このように、小さなことからまずどんな事実に対して、どんな判断をしたのか、

境目を見極めていく練習をまずしていきます。

そうすると徐々に、Aという一つの事象から、B、C、Dと発展していく妄想を

せき止める事が出来るようになりますよね。

 

例えば私はまだ引っ越したてなので、散らかっていたり、

雰囲気が合う家具が見つけられなかったりと苦戦しています。

そういう時に、床に転がってるクッションを見て、

ああ散らかってる、整ってない、あの収納棚は気に入らない、

まだ収納できてないものがたくさんある、貰ったこの家具はこの家に合わない、

理想の家にはまだほど遠い!もはやこの家を買ったのが正解かわからない!!

一瞬にしてこんなに話が飛躍して、もう泣きたくなってるんですね。

事実は何だったでしょうか?

クッションが床に転がっている。ですよね。

どうしてクッションを見て、泣いてるんでしょうか。

妄想のいたずらですよね。

クッションが転がってるなら、もとに戻せばいいだけのはずですよね。

 

本当に小さなところからでいいんです。

是非皆さんも初めて見てください。

最初はとても難しく思いますが、頭の中を整えるための第一歩ですね。

現実と頭の中の世界を分けていく。

 

そして上手に分けられるようになったら、

頭の中の世界に反応して、イライラしたり、心配したり、するんじゃなくて、

その事実をみて、じゃあ今何か出来ることはあるのか?

そんな解決脳で常にいる事です。合理的に、着実に、解決に導くんです。

解決するためにあれこれ考えるんじゃなくて、

解決するための一歩をさっさと踏み出すんです。

一気にやるんじゃなくて、一つずつ着実に。

 

そのためにも、頭を整える。

本棚を整理するように、頭の中を整える。

 

皆さんの心が安らかでありますように。

Rea🐈🍷

踊るように人生を生きる

こんにちは。

今日も今日とて心と向き合っています。

 

最近は新居のリノベーションと壁のペンキ塗り、家具の受け取り、設置等

住環境を整えるのに大忙しな毎日です。

仕事と並行して行える人もいるでしょうが、私は私の心を優先するので、

お休みを2週間いただき、のんびりやって行く所存です。でした。

でも結局、ばたばたするのが現実ですよね。

 

バタバタだから嫌なことを忘れるか、っていうと実はそうでもなく、

しなきゃいけない事が多い時こそ、脳ってフル稼働だから、

妄想、被害妄想、嫌な思い出、そんなものがゴロゴロごろごろ転がってきます。

特に壁のペンキ塗りをしている時が一番きつかったですね。

というのも、懐メロでもかけてペンキ塗りを楽しもう!と思ったら、

思いのほか重労働でしんどいのと、懐メロで学生時代の記憶が相まって、

当時の嫌な記憶をゴロゴロ思い出したんですね。

え、こんなことまだ覚えてたんだって自分でも何年ぶりに思い出した!?

みたいな記憶を思い出す羽目になりました。

ペンキ塗りを瞑想の時間に切り替えたのですが、

それでも脳内で流れてくる複雑な思い出たちを眺めながら

なんだか複雑な気持ちになりました。

 

なんかの歌詞にあったのか、覚えてないのですが、耳に留まった言葉があって、

1人でいる時の寂しさより、2人でいる時の寂しさの方がつらいみたいな。

私は猫ちゃんを飼って、ある意味2人で。

それでも私は私なんですよね。私は私のまま、私が持ってる感情のまま、

猫ちゃんがくれる癒し、喜び、たまに怒りみたいなのが追加されただけ。

自分の寂しさとか怒り、悲しみとかはそのまんま持ってるんです。

無くなるもんじゃない。

寂しさを誰かに埋めてもらおうと思うから、

2人でいるのに寂しいって思う事が辛い。

それは寂しさに限らない。自分の足りない感情を誰かに補ってもらおうとする。

それが本能というとか、人間の自然な逃げ道なんでしょうね。

でも、寂しいっていう感情って埋める必要があるんですかね。

寂しいって感情を埋めようと思うから、埋まらなくてつらい。

確かに居心地のいい感情ではないけれど、必要な感情ですよね。

人は寂しくていいんだと思うんですよね。

どんなに幸せそうな人も、寂しい感情を必ず持ってます。

どんなに恋人に愛されてても、遠くの家族を思って寂しいって思うんです。

どんなに家族と一緒にいても、亡くなった人を思って寂しくなるんです。

1人だから寂しいんじゃない。誰かを想うから寂しいんですよねきっと。

だからちょっと寂しいくらいが人間のニュートラルな状態なんじゃないかな。

 

そんなことをペンキ瞑想中に荒れ狂う過去の記憶の中考えてました。

それでも、きっと私は成長しているんだろうと思います。

この怒涛の日々を乗り越えられるだけの技を私は持っているんだと思います。

自分はいつも自分だから、その成長に気付くのって難しいけど、

きっと今の私だからやり過ごせてる、乗り越えられてるんだと思います。

 

そしてそんな中目に留まった言葉。

Dance with life

直訳すると人生と踊る。踊るように人生を生きる。そんな感じかな。

しなやかで、華やかで、おだやかな喜びがあって、自由に体を動かす、

自由に表現する心地よさがある。顔は優しく微笑んじゃったりして。

そんな風に人生を生きようよって事。

私はそんな風に生きたいんだよなって思います。

 

新居のもろもろが終わったら、そんな風に生きるために集中したい。

今のこの怒涛の日々もかなり経験、挑戦、学びになってる。

人に頼れない私が、どれだけ頼れるのか。

気を使いまくる私が、どれだけ心地よく人にお願い出来るか。

後悔や反省が癖な私が、それだけ後腐れなくやり過ごせるか。

心配事に囚われる私が、いかにもっと起こる出来事に身を任せられるか。

そんな今までの学びを全部実践させられてるような現実を経験しています。

 

踊るように人生を生きる。

今の私は、踊ろうとしては自分の足に躓いてるような状態だけど、

それでも踊るのだ。

いつかしなやかに踊れる日が来るから。

 

皆さんの心が安らかでありますように。

Rea🐈🍷

意見を言う、言わないの葛藤の中にいる時

こんにちは。

今日も今日とて心と向き合っています。

 

私は自分の意見を言うのが苦手です。

どう思われるかな、こんなこと言われるだろうな、こんな注意を受けるだろうな。

1の発言に対して、想定される50のリアクションが自然と想像され、

発言をすることが億劫になります。

そんな風に思われるくらいなら、こんなこと言われるくらいなら、

黙っている方が楽だなあと思います。

でもかといって、自分ばかりが損をする状況も嫌なわけです。

言いたい、言いたくないの狭間にいる事が多いですね。

 

人生が忙しくない時、この狭間で悩む時間もたっぷりとれます。

でも今の私はとても忙しく、言うのか言わないのかを悩む時間すら勿体なく、

長々とそんなことを考えてること自体もストレスです。

 

なので、思ったことは言う、と決める事です。

勿論相手への失礼な発言だったりそういうのは除いて、

素直な思いを伝える、と決める事です。

言うか、言わないかを悩む必要はもうなくなります。

 

そして言った後、案の定想定した通りのネガティブな反応が返ってくると、

HSPな私はまた、悶々と悩むわけです。

わかってるってば、そんな風に言わなくてもいいのに、

私の状況も知らないくせに。とぷりぷりしたくなるし、同時に、

仕事の出来ない奴って思われたかな、自分勝手って思われたかなと、

不安も募るわけです。

 

この思考って矢印が自分に向いている状態なんですよね。

なぜあの人は私にこう言ったのか。

あの人に私はどう思われただろうか。

自分という状態が不安定で、自分の発言に自信が持てない。

だからこそ、相手の反応で自分が正しかったかを判断しようとしてる。

 

でもここで、そのままの自分を認め、肯定し、私はこれでいい、

私の発言はこれでいい、としっかりとした意志を持って、

相手をみる、自分から相手へ矢印を伸ばしてみると、

この状況への捉え方が変わってきます。

相手はきっと、不安だったからそう言ったんだろう。

相手は私の状況を把握していないから、そう言ってしまったんだろう。

相手を正として、自分を判断するんじゃなくて、

自分を正として、相手を理解する。

そうすると、世界はまるっと変わり始めますね。

 

例えば最近の話ですが、

私は今家の購入、リフォーム、仕事の人手不足で人生が大忙し。

全てにおいて頑張っている状態です。

仕事は最低限こなし、必要があれば勿論ヘルプをしていますが、

必要以上に何かを作り上げる事は今はしていません。

それが私のため、私が私を保つためだからです。

そんな時、上司から急遽ミーテイングに入ってほしいと連絡がありました。

上司と、もう一人の同僚がすでにミーテイングをしており、

私が追加で参加しました。

明日から休みなので、上司が同僚に引き継ぎをしていたのですが、

急遽私にも引き継ぎたい、ということで、

突然、詳細も状況も把握していないプロジェクトの内容を説明されました。

私は素直に100%は理解できていませんし、今まで何も把握していなかったので、

どこまで期待されているかわかりませんが、不安です、と言いました。

自分の状況を考えて、

これ以上新たな業務、新たなストレスは抱えられないと思いました。

上司は理解のある方でしたが、もう一人の同僚は、

理解できませんじゃなくて、理解しろよっと冗談風に嫌味を言いました。

私は、ん?って悶々としましたし、その後悶々と考え続ける事になりました。

ただ、私は私の今において、ベストを尽くしています。

自分に無理を強いず、不安があれば不安を伝える。それが私の今の最善策。

出来ない事を約束して、ミスしたくないし、頑張りすぎて鬱になりたくない。

私は私のために最善を尽くした、と理解しました。

そう思って、改めて同僚の反応を見た時、

私には彼の不安が見えました。きっと彼は自分自身が一人で不安だったから、

追加で私にも同じように引き継くようにお願いし、

その私が思ったように頼りになる対応をしてくれなかったから、

そういう嫌味を言ったわけです。

自分の不安を人に押し付けている状態ですね。

私は危うく、彼の不安を背負うことになりそうでしたが、

私の問題ではないと気付き、彼の嫌味を受け取らずに済みました。

 

人は皆いつもベストを尽くしています。

それに気付いている人は少ないかもしれませんが、

失敗しようか、成功しようが、それがベストだったんです。

だから悔やむことなんてないんです。それ以上はなかったのだから。

それよりもベストを尽くしている自分に感謝する。

そしてそれを知ることで、自分に対して何か嫌な事を言う人というのは、

その人自身が何か問題を抱えているという事に気付きます。

嫌なことを言ってしまう、それがその人にとっての今のベストなんです。

何か不安を抱えていたり、心配事、怒りを抱えている。

でもそれは人に解消して貰うものじゃない。

自分で解消する。自分の不安は自分で拭って、自分の機嫌は自分で取る。

だから人の嫌味、不安、怒りを受け取らなくていい。

お互いがお互いのベストを尽くしてるのだから。

 

こうやって少しでも頭の中で考える事が減っていくといいですよね。

考える時間を費やす価値のある悩みなのか、どうなのか。

いかに自分が心地よく生きられるか。

そのための決断、考えないという決断をしていけるといいですよね。

 

皆さんの心が安らかでありますように。

Rea🐈🍷